2024年03月26日
3月25日、欅の森書道会の教室の日でした。

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こんにちは、あるいはこんばんは。
信州塩尻市・欅の森書道会、
本日もWeb担当の宗風でお付き合いを願っておきます。
皆様、昨晩はお疲れさまでした。
殊更、本当にお疲れさまでした。
1年に1回、書象展への作品制作、大団円と納まりましたでしょうか。
私、宗風もこれまでずっと最終週に書いた作品は、
どうにも力が入り過ぎてしまって選ばれず、
前回の作品になり、
「ああ、その後に頑張った分が報われなかった」
…と思うのですが、
今回は前日に書いたものを玄山先生が選んでくださって、
報われた思いでありました。
ここでひとつの区切りではありますが、
まだまだ書の道は長く続いて行きますので、
また励んで行きたいと存じます。
さて、先々のお話。次回以降の欅の森書道会の教室の日、
以下の様に黒板に書き記されておりました。
4月8日、22日
5月13日、5月27日、
6月3日、6月17日
日付だけ拝見しますと、
5月27日と6月3日に間が少なく、
6月17日にも競書の〆切りとなるのでしょうか。
どうでしょう。
また例年ですと、
6月に欅の森書道会の総会があった様に記憶しております。
また昇給級昇段試験が4月号、5月号に掛かると思いますから、
5月13日が昇級昇段試験の締め切りになると思われます。
不確定な部分も多いですが追ってご連絡できると思います。
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ちょっとした文字のメモを。
後半組の皆さんは先生の添削中に「寓」の意味についての質問がありました。
ちょうど前回のブログで取り上げておりました内容となります。
是非ともご一読くださいませ。
また「舂」と言う字も話題に上がりました。「春」ではありません。
「日」が「臼」になっている字です。初めて拝見しました。
「舂く」と読む漢字で「うすずく」だそうです。
夕日が山に入っていく様子、また穀物を臼に入れ、杵などで搗く意味もあるのだとか。
こうして書道を学び、それなりに多くの字に触れていますが、
まだまだ知らない事は多く、一生の学びになるのだなぁ、と思います。
…と言った所で、本日はここまで。
ちょうどお時間となっておりまして。
それではまた次回、お目に掛かります。
宗風でした。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
2024年03月21日
「人生忽として寓のごとし」、基本課題の言葉から。

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こんにちは、あるいはこんばんは。
信州塩尻市・欅の森書道会、
本日もWeb担当宗風がお喋りさせて頂きます。
どうぞ、終いまでのお付き合いを願っておきますが…。
さて。
毎週町内会やら何やらと新年度準備って言うものなんですかねぇ。
至極忙しい。これはこれまでで一番だ!
…と毎年のようにのたまう。そんな季節になって参りましたねぇ。
書象展への作品制作も進んでおられますでしょうか。
何かと慌ただしくって、それなりに、しかしまだ出来るだろう…と言った段階です。
こもって書き続けたいとは思うけれど、
なかなか時間が取れない…なんて所がどなた様もそう大きくは変わらないんじゃねぇか…
…なんてことを思ったりも致しますが。
併せて、もちろん月例の競書課題もございますしね。
忙しい、けれど励めばきっと身になるし、
得ようと思ったものも、より手が届く行き渡る…なんてンで、
相場はそう言うものとお定まりでございます。
どちらもより良い方向を願って噺の方に入って行きたいと思いますが…。
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「人生忽若寓」
人生忽として寓のごとし。
競書誌「書象」2024年4月号の基本課題となっております。
こちらは曹植の「浮萍篇(ふひょうへん)」からの一句。
「浮萍篇」からは「和樂如瑟琴」が2020年9月頃の課題にも採用されておりました。
少し長い詩ですので、一部分だけ原文をまずお出し致します。
日月不恒處
人生忽若寓
悲風來入懐
涙下如垂露
…と言うところ、書き下し文に致しますとこちら。
日月恒には處(お)らず
人生忽(こつ)として寓するがごとし
悲風来りて懐に入り
涙下ること垂露(すいろ)の如し
楽しい詩ではありませんね。嘆き悲しむ詩句が並びます。
日、月は恒=常にはおらず、つまり常に時間は進んで行くと言い、
“人の生は忽として寓のごとし”で、
悲しい思いが胸中に入り込み、涙が止まらないよ…と言った意味になります。
忽とは、にわか、突然の、急で短い変化を言います。
寓は「グウ」と読んで差し支えありませんが「かりずまい=仮住まい」とも読む様で、
仮のもの、例えば…そんな様な意味があるのだそうです。
「若」は「如」に等しく、「ごとく、ごとし」の意味ですね。
「人生、忽として寓するがごとし」は、
人の一生とは、ほんのわずかな、かりそめのものの様である。
長い歴史、地球の誕生、その中ではほんのわずかな儚いもの、小さなものである。
全体として、
「死に至る時間の推移が速やかであることを嘆く」詩になっているそうで、
自分が思う死への感情は大きく重大なものなのに、
それは大きな流れの中では、些事でしかないのだ、と。
これ蘇軾の「駆車上東門」の中にある、
「人生忽如寄」と比較した論文をこの調査中に拝見したのですが、
筆者殿曰く、「寄」も「寓」も同じ義に解して良いが、
しかし、蘇軾においては悲哀を伴って死に至る時間の推移を嘆いている訳ではない、のだそうです。
仏教的なまた死生観そのものに寄るのでしょうけれど、
死への恐怖がある時に、
人の生の大きさ如何によっては、
「どうせ死ぬんだ、気にしない。小さなことさ」とも直したり出来るのかしら。
どんなものでも表裏一体と申しますから、
そう言うこともあるのかしら…なんて言う所であります。
昔から偉い方々が残してくれた諺に、
「喉元過ぎれば…」とある様に、冬が終わり春が訪れる様に、
雨がいつかは上がる様に、こうしたメランコリックな心情も変わるとは思うのですが。
喜びもまた寓であり、悲しみも寓であり。
そうしたものが連なって行って形を成して人生だと思いますが、
それは本人から見たものであって、
どなた様も、他人様の生、それが連なって社会、続いて行って時代…
その中から見れば儚いものではありましょう。
「くよくよする前に進んじゃおうぜ☆」なんて無情緒に考えたりもしてしまいますけれども。
書と共に様々な詩人の思いに触れる事が出来る訳でございまして、
何か、読んでくださった方の心に触れるものがあれば幸いでございます。
「人生、忽として寓のごとし」、
解説の一席、ここでお開きとさせて頂きます。
それでは次回、また3月25日にお会い致しましょう。
宗風でした。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
2024年03月17日
競書誌「書象」2024年4月号、届いております!

連絡、遅くなってしまいました!
すみません。
表題の通り、「書象」の最新号、届いております!
Posted by 欅の森書道会 at
10:19
│Comments(0)
2024年03月12日
3月1回目の欅の森書道会、教室の日。連絡事項など。

こんにちは、あるいはこんばんは。
信州塩尻市・欅の森書道会です。
本日もWeb担当宗風がお喋りさせて頂きます。
どうぞお開きまで、お付き合いの程を願っておきますが…。
さて、昨晩の欅の森書道会、書道教室3月1回目、
会員の皆々様、お疲れさまでした。
暦の上では、そろそろ春めいても良いかなぁ…と存じまして、
実際に暖かな日も無いこともない、
でもどうでしょう、寒さはまだヒシヒシと。
時たま、お洒落に敏感なご婦人方ですと、
スーパーなどに立ち寄った際に、随分と肩を震わせて、
凍えながら日々の買い物をしておられる…
…なんて姿を拝見致しますですねぇ。
そんな所もまた晩冬の、春先の、
再び季節の変わり目がやって来ている…なんて所でしょうか。
そして、今日は大雪でしたし。もう何が何だか分からなくなりますね。
さて、先々の予定が出ておりましたので、
まずはご連絡と致します。
次回、欅の森書道会、3月2回目は、
3月25日となっております。
書象展の作品制作、締め切りです。
落款印をお持ちになるのを、是非お忘れになりませんよう、
よろしくお願い申し上げます。
そして、今後の予定となりますが、
書象展の6月の開催日などが、まだ本決まりではないんだそうで、
とりあえずの4月、5月分として。
4月8日、22日
5月13日、27日
以上となっております。
どちらも月初が競書の提出日となります。
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書展など催し物の情報です。
3月17日から、欅の森書道会の先輩方も出品し、受賞などされている、
「第48回謙信書道展」が東京都美術館、池袋サンシャインシティワールドで開催されます。
第1会場の東京都美術館では、
2024年3月17日から3月23日(休館日:3月18日)となっております。
第2会場の池袋サンシャインシティワールド・インポートマートビル4階では、
2024年3月16日から3月22日まで。
共に入場は無料です。
続きまして、
3月23日、24日、
同じ塩尻市、同じ書象会の「笠原学園・泰山門書道展」が
市役所お隣の笠原学園にて催されるそうです。
松本市美術館では、3月24日までの企画展「須藤康花展」の後、
4月13日から企画展「手塚治虫 ブラック・ジャック展」が、
4月13日から6月2日までとなっております。
美術館の展示に関わるページを拝見しておりましたら、こんな情報も。
第42回信州書象展:2024年11月29日(金) 〜 2024年12月1日(日)
随分先の内容ではありますが、10月に欅の森書道展があったかと…。
要チェックの内容ではないでしょうか。
作品制作を行うとするならば、重なるのかなぁ、と。
何はともあれ、以上、展覧会の情報でした。
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競書誌「書象」2024年4月号の条幅課題、
「山深月抱雲」のお手本、昨晩に玄山先生よりお預かり致しました。
調べてみると、この一節が含まれる漢詩が、
現状、見つけることが出来ておりません。
「山深し、月、雲を抱く」と書き下し文ならば、こんな形でしょうか。
黒板には玄山先生からのポイントが書かれており、
「抱」は、「己」ではなく「巳」に近い形状を取っている様にお見受けしました。
またお手本と照らし合わせて見て下さいませ。
その部分の写真データもスマホで撮影してありますので、
メールを受けることが出来る方ならば、対応できます。
ご入用ならば、宗風までSMSなどでお声がけ下さいませ。
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もうひとつ、ご連絡です。
欅の森書道会の会員も多く参画しております、
(そして会員は現在も募集中です!!)
松本市美術館友の会、来年度の副理事に御子柴英遠さんが選出されたそうです。
大役です。大役ですが、日頃のご活躍を思えば適任とも思います。
私、宗風も理事の末席の末席におりますので、サポート出来たら…と言うところ、
昨年1年で拝見しますと、かなり大変だと思うんですね…副理事。
書道のセミナーなど、書道関連のイベントが強くなるかも、です。
欅の森書道会の皆さんにもご協力を仰ぐことも増えるかも?
どうでしょう。
ともあれ、その際にはどうぞよろしくお願い致します。
…と、言うところで、
様々なお知らせとなりました。
どうでしょう、漢詩の世界をもって見ても…
つまりは1500年以上前の世界であっても、
静かな冬、動き始める春と言う季節の変わり目は、
変わり目なのに、変わりがないようでございます。
書象展に向けて、またもうひと踏ん張り。
頑張って行きましょう。
それでは、本日はここまで。お開きとさせて頂きます。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
2024年03月08日
正岡子規の漢詩「春晨」を読む。

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こんにちは、あるいはこんばんは。
信州塩尻市・欅の森書道会、Web担当の宗風です。
こう、案外まだまだ3月に入ってからも雪があって、
春まだ遠からじの信州ですけれど、
そうですよねぇ、実際に「サクラサク」と言う名文句も、
お江戸、東京とは1か月ほどは違っていて、
卒業式に桜ではなくて、入学式…
もっと昔だと4月中旬が満開だったんじゃないでしょうか。
温暖化と言うヤツと思しきものがあって、
段々と早まっているのではないか…と言うところですが。
さて。
本日は、ちょっとだけ個人的な悩み相談に応じて頂きたい。
読んで頂きたいなぁ、と存じます。
現代と言うものは、スマホでもってインターネットの大海原を検索したらば、
たいていの事は分かる様になっております。
確定申告だって、スマホでe-taxでちょちょいの時代なんです。そうなんです。
そう思っていたのに、どうにも答えが出なくていけない。
そんな話題で、本日はお付き合いを願っておきますが…。
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表題の通り。
俳人「正岡子規」、彼の作品は俳句だけではありません。
漢詩も残っておりまして。
日々、書道の根多として漢詩を探している中で、
日本の漢詩も知る様になりまして、そちらで出会った春の詩がございます。
「春晨」と言う題。「晨」は朝や夜明けを意味しますね。
何か参考になる文献に行き当たれば良かったのですが、
見つからずにおりまして、かろうじて書き下し文のみ。
こうしてお喋りするにあたり、
その書き下し文にあった違和感を個人的に直したりなんてしながら、
それこそ学びの世界と言うコトでございまして。
まずは一読、ご覧くださいませ。
「春晨」 正岡子規
春晨清如濯 春晨 清きこと 濯うが如く
晴日照自東 晴日 東を自ずから照らす
爨炊煙細細 爨炊 煙 細細として (爨炊=さんすい、ご飯を炊くこと)
出窓散薇風 窓を出でて 薇、風に散ず(薇=ぜんまい)
黄鳥鳴古木 黄鳥 古木に鳴く(黄鳥=コウライウグイス)
飛入荊棘叢 飛びて荊棘の叢に入る(荊棘=けいきょく、いばら、またそれらが生えた道)、叢=くさむら
淡雲翳残月 残月、淡雲に翳り(淡雲=うすくたなびく雲、翳=かげ、かげる、かざす)
影落空庭中 影は落つ 空庭の中(空庭=人のいない庭)
萬物得自然 萬物、自然に得る
吾生明日終 吾が生、明日終らん
苟不為利縛 苟も利の為に縛られずんば (縛られなければ)
便能與天通 便ち能く天と通ぜん (便ち=すなわち、すぐに、能く=よく、十分に)
在世豈不勤 世に在りて豈に勤めざらんや (豈=あに、どうして)(勤めようとしないのか、勤めるだろう)
読書味無窮 書を読み、味窮り無し (窮り=きわまり)
春の夜明けは、なんて清々しいのだろう
よく晴れて、太陽が東方を光で包む
飯炊きの湯気は細々と上がっている
風に揺れ、ぜんまいが風に散って行く
ウグイスは古木で囀り、
後、飛んで茨の叢へ入って行った。
残月に薄く雲がかかり、
誰もいない庭に影が落ちていた。
どんなものも自然と迎えるのだ。
私の人生は、明日にはもう終わってしまうかも知れない。
筍も、商いの為に縛られたりしなければ、
瞬く間に育って、天をつく程の背丈になっただろうに。
この世に生を受け、どうして“らしく”生きられないのか。
書を読み耽りながら食べてみるが、ホント旨いな。これ。
…と言う様に訳してみたものの。
これで良いのか、どうなんだろう…と言う相談をお願いしたいのです。
特に最後の一文、それまでの流れ。
春の景色が浮かびます。昼、夜と。
そうして自分の命が終わる様な…一言で表すならば、
絶望の言葉に感じる部分があった上で、
それこそ生の無情を嘆くような中で、
最後の最後に、味限り無しと言う事は、
成長できずに刈り取られるタケノコ君を成長前に食べたと言うことでは?
この詩の答えは何処にあるのでしょうか…。
通りすがりの細君に聞いてみますと、「書の味わいが増すと言う事では?」とのこと。
いやしかし、そうなると筍が利のために縛られることと繋がらないのでは…?
ともあれ、どちらも個人的な解釈ですので。むしろ、正解がお分かりになりましたら、是非ご教示くださいませ。
こうして向き合うとどこか春が待ち遠しいような気持ちに花が咲くように感じます。
もし良ければ、これも揮毫なさってみても良いかも知れません。
正岡子規の漢詩のご案内でした。
本日は簡単に、ここまでとさせて頂きます。
次回、欅の森書道会は3月11日、競書の締め切り日でありまして、
次いで25日、書象展の締め切り前の最後の1回となります。
どうぞ皆様、書の道に励まれますよう、ご健勝をお祈りしつつ。
それではまた。
ありがとうございました。
ありがとうございました。