2024年03月21日
「人生忽として寓のごとし」、基本課題の言葉から。

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こんにちは、あるいはこんばんは。
信州塩尻市・欅の森書道会、
本日もWeb担当宗風がお喋りさせて頂きます。
どうぞ、終いまでのお付き合いを願っておきますが…。
さて。
毎週町内会やら何やらと新年度準備って言うものなんですかねぇ。
至極忙しい。これはこれまでで一番だ!
…と毎年のようにのたまう。そんな季節になって参りましたねぇ。
書象展への作品制作も進んでおられますでしょうか。
何かと慌ただしくって、それなりに、しかしまだ出来るだろう…と言った段階です。
こもって書き続けたいとは思うけれど、
なかなか時間が取れない…なんて所がどなた様もそう大きくは変わらないんじゃねぇか…
…なんてことを思ったりも致しますが。
併せて、もちろん月例の競書課題もございますしね。
忙しい、けれど励めばきっと身になるし、
得ようと思ったものも、より手が届く行き渡る…なんてンで、
相場はそう言うものとお定まりでございます。
どちらもより良い方向を願って噺の方に入って行きたいと思いますが…。
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「人生忽若寓」
人生忽として寓のごとし。
競書誌「書象」2024年4月号の基本課題となっております。
こちらは曹植の「浮萍篇(ふひょうへん)」からの一句。
「浮萍篇」からは「和樂如瑟琴」が2020年9月頃の課題にも採用されておりました。
少し長い詩ですので、一部分だけ原文をまずお出し致します。
日月不恒處
人生忽若寓
悲風來入懐
涙下如垂露
…と言うところ、書き下し文に致しますとこちら。
日月恒には處(お)らず
人生忽(こつ)として寓するがごとし
悲風来りて懐に入り
涙下ること垂露(すいろ)の如し
楽しい詩ではありませんね。嘆き悲しむ詩句が並びます。
日、月は恒=常にはおらず、つまり常に時間は進んで行くと言い、
“人の生は忽として寓のごとし”で、
悲しい思いが胸中に入り込み、涙が止まらないよ…と言った意味になります。
忽とは、にわか、突然の、急で短い変化を言います。
寓は「グウ」と読んで差し支えありませんが「かりずまい=仮住まい」とも読む様で、
仮のもの、例えば…そんな様な意味があるのだそうです。
「若」は「如」に等しく、「ごとく、ごとし」の意味ですね。
「人生、忽として寓するがごとし」は、
人の一生とは、ほんのわずかな、かりそめのものの様である。
長い歴史、地球の誕生、その中ではほんのわずかな儚いもの、小さなものである。
全体として、
「死に至る時間の推移が速やかであることを嘆く」詩になっているそうで、
自分が思う死への感情は大きく重大なものなのに、
それは大きな流れの中では、些事でしかないのだ、と。
これ蘇軾の「駆車上東門」の中にある、
「人生忽如寄」と比較した論文をこの調査中に拝見したのですが、
筆者殿曰く、「寄」も「寓」も同じ義に解して良いが、
しかし、蘇軾においては悲哀を伴って死に至る時間の推移を嘆いている訳ではない、のだそうです。
仏教的なまた死生観そのものに寄るのでしょうけれど、
死への恐怖がある時に、
人の生の大きさ如何によっては、
「どうせ死ぬんだ、気にしない。小さなことさ」とも直したり出来るのかしら。
どんなものでも表裏一体と申しますから、
そう言うこともあるのかしら…なんて言う所であります。
昔から偉い方々が残してくれた諺に、
「喉元過ぎれば…」とある様に、冬が終わり春が訪れる様に、
雨がいつかは上がる様に、こうしたメランコリックな心情も変わるとは思うのですが。
喜びもまた寓であり、悲しみも寓であり。
そうしたものが連なって行って形を成して人生だと思いますが、
それは本人から見たものであって、
どなた様も、他人様の生、それが連なって社会、続いて行って時代…
その中から見れば儚いものではありましょう。
「くよくよする前に進んじゃおうぜ☆」なんて無情緒に考えたりもしてしまいますけれども。
書と共に様々な詩人の思いに触れる事が出来る訳でございまして、
何か、読んでくださった方の心に触れるものがあれば幸いでございます。
「人生、忽として寓のごとし」、
解説の一席、ここでお開きとさせて頂きます。
それでは次回、また3月25日にお会い致しましょう。
宗風でした。
ありがとうございました。
ありがとうございました。